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カブライ / 翡翠に口付け

 眠りにつくと不安になるのは昔からだった。ウタヤが魔物に襲われる前は、眠りとは安寧をくれるものだったのに。あの日を境に眠りとはカブルーにとって悪夢という形で過去を見せつけてくる時間となった。
 迷宮から魔物が溢れ出て、人を喰らい、そして死んだ人が魔物になってまた人を襲う。あれ以上の悪夢が果たして存在するのだろうか。
 今はもう顔も思い出せない実母の亡骸を、泣き縋ることすらできずにカナリア隊に引き取られた。
 その日から忘れるなとばかりに悪夢が追いかけてきて、カブルーの不眠症は発症した。養母はひどく心配し一緒に眠ることが多かったし、カブルーの成長にも悪影響を与えた。
 歳を追うごとに眠るという作業には慣れていったが、悪夢には慣れることはなかった。いつも限界まで起きて、気絶するように眠るか寝酒をすることで無理やり眠りにつく。そうすることで深く眠りに落ち、夢を見ることはない。
 そんな日々を何年も送ってきた。きっとこれからもそうなのだろうと思っていた。

 だから、とても意外だった。ソファに横になって、いつの間にか眠りに落ちていた自分に。
 腹の上には読んでいた仕事の書類が束になっていた。ここはどこだ、とあたりを見回すと、我らがメリニ王、ライオスの私室であることに気づく。
 確か雑談をしながら作業をしていたはずだ。簡単な仕事だからお互い執務室に赴くまでもないとカブルーはソファで、ライオスはよく魔物の絵を描いたりする机に着いて話しながら。
 それが気がつけばカブルーは眠りに着いていた。外を見ると日も傾いていて、結構な時間眠っていたことが窺える。顔を青くし、ライオスはどこにいるのかと探していると、部屋の扉が開かれた。
 そこには手にティーセットを持ったライオスがいて、ライオスはカブルーが起きているのを見て嬉しそうに笑う。
「目が覚めたのか。随分と気持ちよさそうに寝てたから起こすのが忍びなくてそのままにしてしまったが、大丈夫だった?」
「え、はい、あの。仕事に支障はないですが……気持ちよさそうに寝ていた? 俺が……?」
 こんなにすっきりとした目覚めはいつ以来だろうと考えるほど、カブルーの頭は冴えていた。同時に困惑もした。
 あんなに眠るのが苦手なのに、気がついたら眠っていたなんて。初めての経験だった。否、もしかしたら実母に育てられていた時はそんな日もあったかもしれないが、ウタヤが壊滅してからは初めてだ。
 頭がすっきりした状態で困惑するカブルーを他所に、ライオスは持っていたティーセットに紅茶を淹れている。甘い香りが立ち、カブルーはソファから立ち上がりふらふらとライオスに近づいた。
「はい。珈琲の方が良かった?」
「いいえ、気にしません。ありがとうございます」
 ライオスが手ずから淹れてくれた紅茶に文句があるわけがない。むしろ主君にそんなことをさせてしまったことに恥いるくらいだ。きっと寝起きのカブルーのために用意してくれたのだろう。
 暖かな湯気の立つティーカップを受け取り、一口、口の中に含む。爽やかなフルーツの香りが鼻腔を通り、これが非常に美味しい。目覚めにはピッタリだ。
「すみません、王にさせることじゃなかった」
「王とか臣下とか、そんなことは関係ないよ。俺はゆ、友人のカブルーにお茶を淹れてあげたかっただけだから」
 柔らかく笑うライオスに、なんだか照れ臭くなる。彼に年下扱いされるのは癪だ。実際に四つほど歳が離れているが、たかが四つの差。それに普段はどちらかといえばカブルーの方がライオスの面倒を見ているのに。
 たまに兄のように振る舞うライオスに、カブルーは少しばかり不満を抱いていた。
 実際、三つ歳の離れた妹がいるライオスにとっては四つも歳が離れていたら弟のように感じるのかもしれないが。カブルーはライオスの弟になりたいわけではない。
 唯一無二の臣下として、友人として、一人の男として。そう扱って欲しい。言えばライオスはきっとそのように扱っていると言ってくれるだろうが、たまに出てくる「兄らしさ」をどうにかしてほしい。カブルーに兄はいないのに、無性に甘えたくなってしまう。そう思うのがまた悔しくもあった。
「この紅茶、西方から取り寄せた茶葉ですか?」
「ああ、マルシルが気に入ってて。俺もこの爽やかな口当たりの良さが気に入ったから分けてもらっているんだ」
「へぇ……」
 マルシル。メリニの顧問魔術師であり、ライオスが冒険者だった頃の仲間の一人だ。ティーカップを傾けながら相槌を打つ。
 マルシルはカブルーが勝手に絶対に勝てない相手と思い込んでいる相手でもある。ライオスはよくマルシルの笑顔が好きだと言う。その度にカブルーは彼女には勝てないと思う。そもそも勝つ勝たないとはなんだ、と言う話になるのだが。
 美味しかった紅茶に渋味を感じるようになってしまった。カブルーはその紅茶を一気に飲み干す。
「それじゃあ仕事に戻ります」
「俺もまだ終わってないから、一緒にしよう」
 再び書類に手に持ち、ライオスは机に、カブルーもソファに座り直して仕事に取り掛かる。簡単な書類だったから、あっという間に終わったがモヤモヤが残る。今夜は眠れそうにないなと思った。

 とっぷりと日が落ちて、月と星が煌めく頃。カブルーはやはり寝付けずにいた。ベッドに横になったのに目を閉じるが、眠気がやってくることはない。
 昼間に寝てしまったのもあるだろうけれど、それだけではない。
 夜が来るたびに、魔物に怯える幼い自分が顔を出す。ここではライオスのおかげで魔物は現れないと言うのに、未だトラウマは治らない。
 寝酒でもしようと厨房に向かうと、灯りがついていた。誰がいるのかとこっそり近づき、中を覗く。
 そこにいたのはライオスだった。美味しそうな香りが漂い、何か作っていることが伺える。
「何してんですか、あんた」
 思わず出た声にライオスはびくりと反応した。こっそり隠れて夜食を摂ろうとしたのだろう。食事の管理を徹底しているのに何をしているのだと咎めるような声になってしまった。
「か、カブルー……ちょっとお腹が空いてしまって……」
「だからと言ってこっそりと夜食を作るのは駄目ですよ。何のために食事制限していると思ってるんですか」
「分かっているよ……でも小腹が空いて仕方がないだ」
 切なそうに腹を撫でるライオスに、カブルーもしょうがないと苦笑した。
 カブルーはライオスの隣に立って何を作っているのか覗いてみる。鍋の中は黄金色したスープに、均等に切り分けられた野菜が漂っていた。
 鍋から美味しそうな香りが漂ってくると、カブルーの腹も空腹を訴え出した。カブルーの腹がぐぅと鳴ると、ライオスが目を細めて「一緒に食べる?」と言った。優しげに微笑まれながら言われてしまうと、断ることなんてできなくなる。
「……食べます」
「やった。これでカブルーも共犯だ」
 嬉しそうに笑って鍋をかき混ぜるライオスの姿に、カブルーの眦が下がる。
 ――こういうところが可愛いんだよな、この人。カブルーは思う。
 懐に入れた人間にはとことん甘く、甘やかせてくるし甘えてくる。その代わりにここまでくるのにどれだけ大変だったかと思うと、涙が浮かびそうだ。
 スープの器を二つ用意して、スープを分ける。元々一人分だったものを二人分にしたせいか量は少なくなってしまった。
 それでもライオスは嬉しそうに器とスプーンを持ってテーブルに着く。しかしすぐに食べ出したりはせず、カブルーを見つめてくる。カブルーが同じようにテーブルに着くのを待っているらしい。カブルーもスプーンを持ってライオスの正面に座った。
「いただきます」
「――いただきます」
 ライオスが自然といただきますを言うから、カブルーも釣られて言う。そうして二人はスープを食べ始める。野菜の甘味と調味料の塩気の塩梅が美味く、スープを飲む手が止まらない。
 一人分を二人で分けたからかすぐに器は空になってしまった。そのことを勿体なく、まだ食べたいと言う欲が出てくる。
「美味しかった?」
 顔を上げるとすでにスープを完食したライオスが頬杖をついてカブルーのことを見つめていた。小首を傾げて問いかけられて、カブルーの頬が熱くなる。ずっと見られていたのかと思うと恥ずかしくなった。頬をぐいっと拭って返事をする。
「美味しかったですよ。料理が上手いんですね」
「それはセンシのおかげかな。迷宮攻略中に色々と料理を作ってきたから」
 懐かしげに空になった器の縁をなぞるライオスの瞳は、どこか寂しそうでもある。
 迷宮が恋しいのだろう。だが、彼はもう迷宮に行くことは叶わない。先日は自然迷宮に勝手に行ってヤアドに怒られていたが、あれで王としての自覚が芽生えたのかそれ以降は勝手に城から抜け出すことがなくなった。
 正直、冒険者として自由だったライオスをメリニという檻に縛り付けているとカブルーは思っている。彼はもっと自由でありたいのに、国民やカブルー達のことを思ってこの城に留まってくれているのだ。
 そのことが申し訳ないと思ったことがないと言えば嘘になる。けれど、おかげでメリニは魔物に襲われる心配もなく、多種族の人々が飢えることなく暮らせる国になっているのだから、彼がいなくなってしまったらこの国は立ち行かなくなるのも事実。
 複雑な気持ちになりながら、カブルーはライオスを見つめた。ライオスの代わりなどどこにもいない。
「ライオス……」
「さ、夜食も食べたし寝ようか」
 なんと声をかければ良いのかと悩んでいるうちに気持ちを切り替えたらしいライオスが、明るい声で部屋に戻ろうと促す。カブルーはそれに頷くことしかできなかった。
 部屋に戻ってベッドに横になると、スープのおかげで体が温まったからなのか、過去のことを思い出さずに寝入ることができた。

 翌日。謁見と会議を終えてぐったりとしているライオスの元に重なった書類を置く。それを見たライオスはどこから出したのか分からないような声を上げた。
「これ、今日中にやらなきゃいけない書類?」
「はい。今日中に承認していただかなければならない書類です」
 俺も手伝うんで頑張りましょう、と言えばライオスはしおしおになりながら羽ペンを手に取った。
 これでもライオスの元に届く前に厳選した書類だが、何せメリニは生まれたばかりの国。王の承認をもらわなければならないことがまだまだたくさんある。
 もっと楽に仕事をさせてやりたいとカブルーも思っているが、なかなかそうはいかない時期だ。
 嫌そうな顔をするもののライオスは逃げようとしない。それは彼自身、この国を大切に思っているからだろう。そんな彼の頑張りに報いなければと自然と思わされる。こういった求心力が彼を王たらしめるのか。
 かりかりと羊皮紙にライオスの名前が刻まれる音が響く。それを聴きながらカブルーも仕事を始める。
「そういえばカブルーにあげたいものがあったんだ」
 ふと思い出したようにライオスが顔を上げ、ごそごそと机の引き出しを漁り出した。それに釣られてカブルーは立ち上がり、ライオスに近づく。しばらくしてライオスは「あったあった」と言うと何かを取り出した。
 机の上にことりと小さな音を立てて置かれたのは、翠色の綺麗な宝石だった。宝石とは珍しいと思っていると、ライオスはカブルーを見上げてにこりと笑う。
「これを君にあげるよ」
「これを……俺に?」
 まさか魔物が結晶化したものじゃないだろうな、と疑いの目を向けると、ライオスは慌てたように両手を振った。
「違う違う。これはファリンが持って帰ってくれた物なんだ。翡翠という宝石で、君の誕生月の宝石らしい」
 誕生月の宝石なんてそんなロマンチックな物をよこしてくるとは、何を考えているのかとやはり疑いの眼差しをむけてしまう。
「信用がないな……まぁいいけど。この石は心の平穏を与えてくれたり、邪気を払うと言われているらしい。君、不眠症だろ?」
「え、なんでそれを……」
「遅い時間なのに部屋の明かりがついているのをよく見るから、そうかなって」
 だから、それ。そう言って机の上に置かれた翡翠を指差す。
「気休めだけれどお守りにどうだろうと思って。この国には魔物は現れないし、カブルーにとっても安らかに過ごせるようになってほしい」
 窓から差し込む光を鈍く反射させるその石を、カブルーは目を見開いて見つめていた。ライオスに不眠症のことがバレていたことに驚いたし、それを和らげようと思ってくれていたことにも驚いていた。
 カブルーはライオスからたくさんのものを貰っているのに、それでもなおライオスはカブルーに与えようとしてくれる。本当に身内に入れた人間にはとことん甘い人だ。その甘さを独り占めしたいと思ってしまうこの感情はどこからきているのか。思考を放棄して、机に置かれた宝石を手に取った。
 小粒のそれを光に翳して、まじまじと見つめる。翠色が綺麗に光を反射させてカブルーの頬を一部同じ色に染める。
「嫌だった?」
「いいえ! そんなわけありません!」
 ライオスに石を取り上げられないようにカブルーは手を背後に隠した。まるで子供じみた仕草だったが気にしていられなかった。ライオスがわざわざ用意してくれた物を取られたくなかった。
 これはもう自分の物であると主張するように警戒していると、ライオスが両手を上げて「取らないよ」と苦笑した。
「そんなに気に入ってくれたなら嬉しい」
「……あんたがこういうのよこしてくるなんて珍しいですね」
「言っただろう? 君が安心してこの国で過ごして、この国を第二の故郷にしてくれたらいいと思っただけだよ」
 そうやって優しく笑って見せるライオスに、カブルーの涙腺は緩みそうになった。もうとっくに、メリニは自分の第二の故郷だと言いたかったが、今声を出したら情けない声になってしまえそうで言えなかった。手の中の翡翠をぎゅっと握りしめる。それだけで胸の中にある不安が消えていくようだった。
 ライオスから翡翠をもらった日の夜、カブルーは今日中に終わらせなければならい全ての仕事を終わらせ、湯浴みも済ませて服を脱ぎ散らかすといそいそとベッドに潜り込んだ。枕元には翡翠を置いて。
 やがて眠りに落ちたカブルーは、メリニの街に魔物が雪崩れ込んでくる夢を見た。
 ライオスが魔物の手によって殺されそうになったところで飛び起きる。冷や汗が止まらず、ぜぇぜぇと肩で息をしていた。
 ――今日はもう眠れそうにない。そう思って枕元を見ると、翠の石が窓から差し込む月明かり受けて鈍く光っている。それを見ただけで悪夢で感じていた不安が解消されていくのを感じた。
 ばたりとまたベッドに倒れ込んで、翡翠をじっと見つめる。すると昼間に交わしたライオスとの会話を思い出す。それだけで安心感に包まれていき、自然と瞼が重くなった。
 動かすのも億劫になった手を持ち上げて、翡翠を手に掴み、顔の近くに取り寄せる。そして温度をもたない宝石にそっと口付け、カブルーは眠りについた。
 その日を境に、カブルーは悪夢を見ることがなくなったのだった。畳む
    

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